翻刻             (漢字かなまじり表記)
中比上東門院の御うちに、        中比上東門院の御内に、        
むらさき式部といふけんぢ        紫式部と言ふ賢女           
よあり。そのすがたたへにして、     あり。その姿妙にして、        
やうりうのかぜになびくが        楊柳の風に靡くが           
ごとし。ひすひのかんざし、せみ     如し。翡翠の簪、蝉          
のはのすきとをりたるがごと       の羽の透き通りたるが如         
し。みだれてかゝるびんの        し。乱れて懸かる鬢の         
はづれより、かほのにほひ、うす     外れより、顔の匂ひ、薄        
雲に月のすきたるがごとし。       雲に月の透きたるが如し。       
くちびるは、ふようのごとし。む     唇は、芙蓉の如し。胸         
ねは玉にゝたり。すがた、その      は玉に似たり。姿、園          
をの中のはなのゆふばへ、        生の中の花の夕映へ、          
さきこぼれたる梅・さくらの       咲きこぼれたる梅・桜の        
ごとし。こころばへ、ゆうげん      如し。心ばへ、幽玄    

               (1丁表)


じんじやうにして、よのつね       尋常にして、世の常           
の人にすぐれたり。こと・びはの     の人に優れたり。琴・琵琶の      
てづかひ、ならびなく、又うたの     手遣ひ、並びなく、又歌の       
みちは、むかしのそとほりひめ      道は、昔の衣通姫           
のあとをつぎ、伊勢・小町がご      の跡を継ぎ、伊勢・小町が如       
とし。それのみならず、御法の道     し。それのみならず、御法の道     
もあきらかなり。りう女があと      も明らかなり。龍女が跡         
をたづね、法花経をふだんによ      を訪ね、法華経を不断に読        
みけり。このよしおほやけよ       みけり。このよし公よ         
りきこしめして、やがてめし       り聞こし召して、やがて召し         
いだされ、うねめ・うへわらはの     出され、采女・上童の         
中にも、これをもつてもつぱ       中にも、これをもつて専         
らとす。なをば、むらさきし       らとす。名をば、紫式         
きぶとめされけり。                 部と召されけり。    

               (1丁裏)
                                                       上1p
                                                           
                                                           
                                       
                                       
     〔挿絵  第一図〕          〔挿絵  第一図〕        
                                                           
                                                           
                                                           
                                                           
                                       
                                       



                (2丁表)                    

                             

かくて、ゐんちうにこれをもつて      かくて、院中にこれをもつて      
一とす。ある夜ふしぎなる夢        一とす。或る夜不思議なる夢        
を見て、その身たゞならず、月       を見て、その身ただならず、月       
をへて玉をのべたるがごとくな       を経て玉を延べたるが如くなる    
るひめをまふけたり。よのつね       姫を設けたり。世の常        
の人のことも見えず。まことに       の人の子とも見えず。誠に      
いつくしき、ことばもをよびが       いつくしき、言葉も及び難      
たし。ほどなくせいじんして、す       し。程なく成人して、既         
でに六になる。いつくしさ、いふ      に六になる。いつくしさ、言ふ   
ばかりなし。母のあまりのいとおし     ばかりなし。母のあまりのいとほし  
さに、ひめがかみをかきなで、「我が    さに、姫が髪を掻き撫で、「我が   
ごとく、かまへて<かまえて>うたをよく  如く、かまへてかまへて歌をよく   
よみならへ」といひければ、「なに     詠み習へ」と言ひければ、「何    
としてうたをばならひ候べき」と         として歌をば習ひ候べき」と

                (2丁裏)

                                    上2p

おとなしやかにとひければ、「ふる     おとなしやかに問ひければ、「古     
うたのおもしろきを見て、そ        歌の面白きを見て、そ              
れをほんにせよ。こまちがよみ       れを本にせよ。小町が詠み          
たらむをよく<よく> 見て、夜も     たらむをよくよく見て、夜も      
ひるも又二なくこのめば、いかに      昼も又二なく好めば、いかに      
もあがるぞ」といひければ、かの      もあがるぞ」と言ひければ、かの    
ひめ、うちわひて、            姫、うち笑ひて、          
  はゝやはゝ                母や母              
      このめば              好めば             
   うたのよまるゝか              歌の詠まるるか        
     すりこのはちに              擂粉の鉢に        
      さらそへて                皿添へて        
       たべ                   賜べ         
とぞいひける。あまりのいた         とぞ言ひける。あまりの幼

                (3丁表)




いけなることばなりけるや。        気なる言葉なりけるや。        
めのとゝ<ママ>は、「さらにかやうによみ   乳母は、「さらにかやうに詠み     
たり                   たり                
  ける」                  ける」              
    とて、                  とて、            
  ゑつぼ                  笑壺                
     に                  に              
     入て                  入りて            
    あひし                   愛し           
      ける。                   ける。     
                                      
                                      
                (3丁裏)                 
                                       
                                    上3p


                                       

                                       
                                       
  〔挿絵 第二図〕             〔挿絵 第二図〕         
                                                           
                                                           
                                                           
                                                          


 
                   (4丁表)                    



そのゝち、むらさきしきぶいひ      その後、紫式部言ひ          
けるは、「我しゆくぐはんの事      けるは、「我宿願の事         
ありて、いし山のくわんをんに      有りて、石山の観音に         
まいるべし。三七日こもるべし。     参るべし。三七日籠るべし。      
そのほど、まゝ母ごにしたがひ      その程、継母御に従ひ         
て、にくまるな」といひければ、     て、憎まるな」と言ひければ、     
「なにとして三七日まではまち      「何として三七日までは待ち      
さぶらふべき。とく<とく>げかう    侍ふべき。とくとく下向        
させ給へ」といひければ、「さらば    させ給へ」と言ひければ、「さらば   
十日ばかりあるべし」とぞいひ      十日ばかりあるべし」とぞ言ひ     
ける。そのゝちまゝはゝごにつ      ける。その後継母御に附        
きてゐたりけれ、あまりいた       きて居たりけれ、あまり幼       
いけしていつくしかりければ、      気していつくしかりければ、      
まゝはゝもにくみ給はず。ある      継母も憎み給はず。ある  

               (4丁裏)

                                    上4p

人伊勢へまいりたりけるが、       人伊勢へ参りたりけるが、       
かはらけのやうなるこなべ        土器のやうなる小鍋          
を二つ、つとにしてあるを、ま      を二つ、土産にしてあるを、継     
まはゝ、我子二人ありけるに、      母、我子二人ありけるに、       
一づゝたびけり。このひめに       一つづつ賜びけり。この姫に      
たばざりければ、あまりほ        賜ばざりければ、あまり欲       
しくてなきゐたりけるお         しくて泣き居たりける折         
りふし、のきのたけの中に        節、軒の竹の中に              
うぐひすのさえづりけるを        鶯の囀りけるを            
つく<づく>ときゝて、かのひめ、    つくづくと聞きて、かの姫、      
  うくひすよなど             鶯よなど             
      さはなくぞ            さは鳴くぞ             
    ちやほしき               乳や欲しき          
   こなべやほしき                小鍋や欲しき        
                                       
               (5丁表)
                                       

      はゝや                 母や           
        恋しき                恋しき
とうちながめて、なみだをながし     とうち詠めて、涙を流し        
ければ、まゝはゝもあはれにお      ければ、継母も哀れに思        
もひて、我子にとらせたるを       ひて、我子にとらせたるを       
一つこひて、かのひめにぞたび      一つ請ひて、かの姫にぞ賜び      
てける。そのゝち、むらさき式部     てける。その後、紫式部        
はいし山にて源氏六十でうつ       は石山にて源氏六十帖作        
くり、いし山の大はんにやのうら     り、石山の大般若の裏         
にかきたりけり。すなはち我が      に書きたりけり。すなはち我が     
すがたをも、ゑしをよびくだし、     姿をも、絵師を呼び下し、       
にせゑにかゝせ、「あんじつをつ     似絵に書かせ、「庵室を造       
くり、此ゑをほんぞんとして       り、此絵を本尊として         
ぼだひをとぶらひてたべ」といひ     菩提を弔ひて給べ」と言ひ       

               (5丁裏)
                                    上5p

をき、しよりやうをよせてげ       置き、所領を寄せて下         
かうしけり。いまに法花経の       向しけり。今に法華経の        
こゑたえせずとかや。さて石山      声絶えせずとかや。さて石山      
より下かうして、かのひめにる      より下向して、かの姫に留       
すのほどの事とひければ、く       守の程の事問ひければ、詳       
はしく物がたりしけるほどに、      しく物語りしける程に、        
いよ<いよ>おとなしくぞおもひ     いよいよおとなしくぞ思ひ       
ける。まゝはゝ此心のうちをも      ける。継母此心のうちをも       
よろこびける。かくて年月を       喜びける。かくて年月を        
ふるほどに、なを<なを>いつく     経るほどに、猶々いつく      
しさ世のつねの人ともおぼ        しさ世の常の人とも覚         
えず。ふようのまなこ、玉のむ      えず。芙蓉の眼、玉の胸、       
ね、すがたを物にたとふれば、      姿を物に譬ふれば、          
やうきひ、りふじん、小野の       楊貴妃、李夫人、小野の        
                
               (6丁表)


小町、二条のきさきときこえ       小町、二条の后と聞こえ        
給ひしも、これにはいかでまさる     給ひしも、これにはいかで勝る     
べき。びはのしらべは、ちやうあん    べき。琵琶の調べは、ちやうあん    
しやうがむすめにもまさる        しやうが女にも勝る          
ほどなり。わうせうくんのば       程なり。王昭君の馬          
しやうのきよく、かくやとおも      上の曲、かくやと思          
ひしられたり。かたじけなくも      ひ知られたり。忝なくも        
伊勢さいぐうの、たまごとかき      伊勢斎宮の、玉琴掻き         
ならしたまひて、            鳴らし給ひて、            
  ことのねにみねの            琴の音に峯の           
     松風かよふらし           松風通ふらし          
       いづれの             いづれの           
   およりしらべ                緒より調べ         
       そめけん               初めけん         
             
               (6丁裏)
                                    上6p

とくちずさび給ひしも、かく       と口ずさび給ひしも、かく       
やとぞおぼえける。せいじんする     やとぞ覚えける。成人する       
ほどに、年十三の春の比、にはか     程に、年十三の春の比、俄か      
なやむ事ありて、すでにか        悩む事有りて、既に限         
ぎりになりける時、おんやう       りになりける時、陰陽         
のかみをしやうじ、うらかたを      の頭を招じ、占形を          
とひければ、「大事のじやけ       問ひければ、「大事の邪気       
にてわたらせたまふ。われらがい     にてわたらせ給ふ。我らが祈      
のり申さん事、かなふべしとも      り申さん事、叶ふべしとも       
おぼえず」と申てかへりけり。ちか    覚えず」と申して帰りけり。力     
らをうしなひて、すみよし        を失ひて、住吉            
の御ちかひばかりたのみたてま      の御誓ひばかり頼み奉         
つり、心のうちにぐはんどもたてゝ、   り、心の中に願ども立てて、      
たゞ母、「我いのちにかへさせたま    たゞ母、「我命に替えさせ給      
                                         
               (7丁表)                      


へ」とぞ申ける。すでにはやかぎ     へ」とぞ申ける。既にはや限      
りになりければ、むらさき式部      りになりければ、紫式部        
と、かほとかほとさしあはせて、     と、顔と顔とさし合はせて、      
いかゞはせんとぞかなしみける。     いかゞはせんとぞ悲しみける。     
おりふし卯月の事なるに、        折節卯月の事なるに、         
くもゐのほかにほとゝぎす、こゑ     雲井の外に時鳥、声           
をとづれてとをりければ、か       訪れて通りければ、か         
のひめいろ<いろ>として、すこし    の姫いろいろとして、少し        
たゞなをり、いきのしたにてか      ただな折、息の下にてか        
くばかり、               くばかり、                
  ほとゝぎすしでの            時鳥死出の            
     山ぢのしるべせよ          山路の導べせよ         
   をやにさきだつ              親に先立つ           
     みちをしらねば               道を知らねば           

               (7丁裏)
                                    上7p


とぞかすかにながめける。はゝや     とぞかすかに詠めける。母や      
めのとのこゝろのうち、たとへんか    乳母の心のうち、譬へん方       
たもなかりけり。かゝりけると      もなかりけり。かゝりける所       
ころに、てんじやうに物おそ       に、天井に物恐                 
ろしきこゑありて、つの五、       ろしき声ありて、角五つ、       
かほ三つありけるあかきを        顔三つ有りける赤き鬼、        
に、てんじやうをひきやぶり、      天井を引き破り、            
しらたまのごとくなるな         白玉の如くなる涙           
みだをながし、大おんじやう       を流し、大音声            
をあげて、「あはれなり。ぢや      をあげて、「あはれなり。定       
うごうかぎりありて、すで        業限り有りて、既            
にめいどのみちにとつて         に冥途の道に取つて          
ゆかむとするところに、いま       行かむとする所に、今          
のうたをあはれみ給ひて、        の歌を憐れみ給ひて、   

               (8丁表)



十わうも神<神>も、このたび      十王も神々も、今度           
はゆるすなり。やがてこの秋       は宥すなり。やがて此の秋       
のころよりも、大内よりめし       の頃よりも、大内より召し       
ありて、きみのめぐみにあづ       ありて、君の恵みに預         
かるべし。さらば            るべし。さらば            
       われは                我は           
        かへる                帰る       
     ぞ」と                  ぞ」と         
       いひて、                言ひて、        
       はふより                破風より       
         あがり                  上がり      
          ける。                  ける。     
                                                
               (8丁裏)

                                                        上8p
                                       
                                       
                                       
                                       


  〔挿絵  第三図〕                        〔挿絵  第三図〕






                                                                  
               (9丁表)                   
                                       

                                       
                                       
                                       
                                       
 〔挿絵 第四図〕            〔挿絵 第四図〕          
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                               



               (9丁裏)                  


                                   上9p

さるほどに、やまひやがてな       さる程に、病やがて治         
をり、もとのごとくなり。此事      り、元の如くなり。此事        
きこしめして、やがてゆるし色      聞こし召して、やがて聴し色      
の御きぬ一かさね、ひの御はかま     の御衣一襲、緋の御袴         
をくだし給ひけり。かけおび、      を下し給ひけり。掛け帯、       
玉かづら、むねのまぼり、あや      玉鬘、胸の守り、綾          
のくつ、にしきのもをぞたま       の沓、錦の裳をぞ賜          
はりける。そのなをいづみ式部      りける。その名を和泉式部       
とめされけり。かたへのうねめ・う    と召されけり。傍の采女・上      
へわら<ママ>も、うらやみけり。しかるに、 童も、羨みけり。しかるに、      
やがてげいしやううひのまひを      やがて霓裳羽衣の舞を         
ゆるされたてまつる。このま       許され奉る。此の舞          
いと申は、やうきひ・りふじん・ぐ    と申すは、楊貴姫・李夫人・虞     
し、かやうのきさきの御まいな      氏、かやうの妃の御舞な
                                       
              (10丁表)                 
                                       

り。ゆるし色とは、くれなゐ・むらさ   り。聴し色とは、紅・紫        
きの御きぬなり。かやうにめでたき    の御衣なり。かやうにめでたき     
御めぐみありて、又ならぶ人もな     御恵みありて、又並ぶ人もな      
かりけり。かくのごとくのおりふ     かりけり。かくの如くの折節、     
し、都におそろしきをにいで       都に恐ろしき鬼出で          
きて、うつくしきちごにばけて、     来て、美しき稚児に化けて、      
夜ごとに人をとりくらひけり。      夜毎に人を取り食らひけり。      
そのなは、しゆてんどうじと       その名は、酒呑童子と         
いふ。みやこの中さはがしき事      言ふ。都の中騒がしき事        
申ばかりなかりけり。かのをにを     申すばかりなかりけり。かの鬼を    
うつべきよしを、らいくはう・ほう    討つべきよしを、頼光・保       
しやう二人のしやうぐんにちよ      昌二人の将軍に勅           
くをくださる。              を下さる。        
                                       
              (10丁裏)                  
                                                           
                                                       上10p
                                                           
                                                           
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
  〔挿絵  第五図〕                        〔挿絵  第五図〕
                                        





              (11丁表)
                                                                  


かのをにのじやうは、西山・あたご・   かの鬼の城は、西山・愛宕・      
おひの山二所ありけるを、頼       老の山二所有りけるを、頼       
光・ほうしやう二人のしやうぐん、    光・保昌二人の将軍、         
くはんぐんをもよほしては、「かの    官軍を催しては、「かの        
をにじんつうのものなれば、や      鬼神通のものなれば、や        
がてからこくへもゆくべし。に      がて唐国へも行くべし。逃       
がしてはかなふべからず」とて、     しては叶ふべからず」とて、      
らいくわうは、つなといふぶよう     頼光は、綱と言ふ武勇         
すぐれたるものばかりめしぐせ      勝れたる者ばかり召し具せ       
られ、ほうしやうは、ひとりむし     られ、保昌は、一人武者        
やばかりめしぐして、さけをこの     ばかり召し具して、酒を好       
むをになりとて、さゝへにさけ      む鬼なりとて、小筒に酒        
をいれて、山ぶしのすがたを       を入れて、山伏の姿を         
まなびて、かの山を三日三夜       まなびて、かの山を三日三夜

              (11丁裏)
                                       
                                   上11p

たづね給ひける。かのをにお       尋ね給ひける。かの鬼多        
ほくの人をとり、をのれがじやう     くの人を取り、己が城         
にかへりけるが、さけのにほひし     に帰りけるが、酒の匂ひし       
けるを、あやしとおもひ見れば、     けるを、怪しと思ひ見れば、      
山ぶし四五人、さゝへにさけを      山伏四五人、小筒に酒を        
入てきたり。そのときかのを       入れて来たり。その時かの鬼、     
に、れゐのちごのすがたになり      例の稚児の姿になり          
ていでたり。うつくしさ、中<中>    て出でたり。美しさ、中々       
たとへんかたもなし。あまりか      譬へん方もなし。あまり輝       
がやきて、そのすがたさだか       きて、その姿定か           
には見えざりけり。かのりやう      には見えざりけり。かの両       
しやうぐんも、した心には心え      将軍も、下心には心得         
けれども、かのちご、まひをまひ     けれども、かの稚児、舞を舞ひ     
うたをうたひて、しやくをとり      歌を歌ひて、酌を取り   
                                       
              (12丁表)                 


つよくしいければ、ふかくゑひ      強く強いければ、深く酔ひ       
給ひてけり。をにゝもいたくし      給ひてけり。鬼にもいたく強      
い給へば、かれもゑいけり。たが     い給へば、彼も酔ひけり。互      
ひにゑいふしたりけるに、ほう      ひに酔ひ臥したりけるに、保      
しやうすこしおどろきて見        昌少し驚きて見            
給へば、くだんのちご、物もおも     給へば、件の稚児、物も思       
ひたゞしきあかきをにとな        ひ正しき赤き鬼とな          
り、かしらは八つ、あし九、まなこ    り、頭は八つ、足九つ、眼       
十六のあかきをにとなりて、       十六の赤き鬼となりて、        
火のほむらのごとくなるいき       火の焔の如くなる息          
ふきかけて、山ぶしたちを        吹きかけて、山伏達を         
とらんとする。りやうしやう       取らんとする。両将軍、        
ぐん、つるぎぬきてかゝり給       剣抜きてかゝり給           
へば、をにもつるぎをなげゝれ      へば、鬼も剣を投げけれ 

              (12丁裏)
                                   上12p
                                      
ども、じんつうけん、ひげきり      ども、神通剣、髭切り         
などなげかけたまへば、をにの      等投げかけ給へば、鬼の        
つるぎはおれにけり。かのつ       剣は折れにけり。かの剣        
るぎにて、をにのくびをと        にて、鬼の首を取           
り給ひけり。これもすみよ        り給ひけり。これも住吉        
しの明神、ちよくしをま         の明神、勅使を守           
ぼり給ひて、さうにげんじ        り給ひて、左右に現じ         
給ひけり。さてもをにのくび       給ひけり。さても鬼の首        
をとりて都にのぼり、君の        を取りて都に上り、君の        
御めにかけ申されければ、二       御目にかけ申されければ、二      
人のしやうぐんに天下をあづ       人の将軍に天下を預          
くるなりとのせんじなり。ら       くるなりとの宣旨なり。頼       
いくわうに、いかばかりともなくし    光に、いかばかりともなく所      
よりやうをくだされけり。ほ       領を下されけり。保
                                       
              (13丁表)


うしやうは、何にてものぞめと      昌は、何にても望めと         
のせんじなりしかば、「をそれな     の宣旨なりしかば、「恐れな      
がらいづみしきぶをくだし給       がら和泉式部を下し給         
はらん」とぞ申ける。おしくは      はらん」とぞ申ける。惜しくは     
おぼしめせども、やがてくだし      思し召せども、やがて下し       
たまはる。さりながら、殿上のみ     賜はる。さりながら、殿上の宮     
やづかひをせよとのせんじなり。     仕ひをせよとの宣旨なり。       
なのめならずよろこびて、我しゆ     なのめならず悦びて、我宿       
く所へむかへとり、ひるは大内の     所へ迎へ取り、昼は大内の       
御みやづかひをむねとし、君の御     御宮仕ひを旨とし、君の御       
事を一大事とぞみやづかひけ       事を一大事とぞ宮仕ひけ        
る。かくてほうしやうの、御       る。かくて保昌の、御         
ちぎりふかく              契り深く               
      おぼしめし             思し召し     
                                       
              (13丁裏)
                                   上13p
                                       
                                       
         ければ、            ければ、          
          なにはの            何はの          
           事に              事に          
         つけ              つけ            
           ても             ても           
          とぼし              乏し          
           からず。              からず。 

              (14丁表)                 
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       

                                       
                                       
                                       
                                       
 〔挿絵  第六図〕            〔挿絵  第六図〕          





                                       
            




                          (14丁裏)           

                                   上14p

みやこにその比、道明法し        都にその比、道命法師         
といふうたよみの名人ありけ       と言ふ歌詠みの名人ありけ       
るに、いづみしきぶとき<どき>     るに、和泉式部時々          
うたの大事どもをならひけ        歌の大事どもを習ひけ         
れば、すでにあやしきうた        れば、既に怪しき疑          
がひをえたりしほどに、人        ひを得たりし程に、人         
<びと>のざんによりて、ほうしやう   々の讒によりて、保昌         
すこしすさめさせ給ひけり。       少し荒めさせ給ひけり。        
すでにとしをかさねければ、母      既に年を重ねければ、母        
のむらさき式部、この事を        の紫式部、この事を          
きゝて、よびよせ、よろづの女      聞きて、呼び寄せ、万の女       
ばうのふるまひをぞをしへ        房の振舞ひをぞ教へ          
ける。これだいいちのひじなり。     ける。是第一の秘事なり。       
さうなく人に見すべからず。       左右なく人に見すべからず。
                                       
              (15丁表)                   
                                       

そのことばにいはく、          その詞に曰く、            
「人にまじはる事は、すべて       「人に交はる事は、全て        
大事の物なり。よく<よく>きく     大事の物なり。よくよく聞く      
べし。君の御めぐみふかければ      べし。君の御恵深ければ        
とて、我かほして、かたへのおなじ    とて、我顔して、傍の同じ       
ならぶ人ににくまるべからず。      並ぶ人に憎まるべからず。       
やがていかなる事をもいひつ       やがていかなる事をも言ひつ      
けて、ざんせらるゝ物なり。又      けて、讒せらるゝ物なり。又      
人<びと>にまじはるとき、めに     人々と交はる時、目に         
て人を見るべからず。かほに       て人を見るべからず。顔に       
て見べし。目ばかりにてみ        て見るべし。目ばかりにて見      
はんべれば、にくげに見ゆ        侍れば、憎げに見ゆ          
るなり。又さのみうつぶきて       るなり。又さのみ俯きて        
見給ふべからず。又おかしき       見給ふべからず。又おかしき
                                       
              (15丁裏)                   
                                   上15p

事ありて人のわらはゝす、        事ありて人の笑はゝす、        
すこし我もほれ<ぼれ>として      少し我も惚れ惚れとして        
わらふべし。さのみくちをひ       笑ふべし。さのみ口を開        
らきてわらふべからず。又人       きて笑ふべからず。又人        
の物がたりせんずるに、あしく      の物語せんずるに、悪く        
いふとも、われしりがほにさし      言ふとも、我識り顔にさし       
いでゝいふべからず。また人の      出でて言ふべからず。又人の      
もしとひかけば、すこしはいふ      若し問ひかけば、少しは言ふ      
べし。いつかうにいはぬは、しらぬ    べし。一向に言はぬは、知らぬ     
ものになるなり。そうじて、       者になるなり。総じて、        
さのみことばおほくいふべか       さのみ言葉多く言ふべか        
らず。又あまり物をいはねば、人     らず。又あまり物を言はねば、人    
をそねむやうなり。又おもふ       を嫉むやうなり。又思ふ        
つまにむかひても、おもはれ       夫に向かひても、思はれ  
                                       
              (16丁表)                  


がほにあるべからず。さのみ物      顔に有るべからず。さのみ物      
ねたみもふかくすべからず。       妬みも深くすべからず。        
そのまゝとをき事あるべ         そのまま遠き事あるべ         
し。又一かうねたむけしき        し。又一向妬む気色          
なければ、               なければ、              
     かへつて                かへつて          
       こなたを                此方を         
    うたがはるゝ              疑はるる          
      事ある                 事ある          
        べし。                 べし。        
    むかしもさる              昔もさる           
       ためしあり。              例あり。
                                       
                                       
              (16丁裏)                

                                   上16p




                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
 〔挿絵  第七図〕            〔挿絵  第七図〕          






              (17丁表)
                                                             


ありはらの中将と申人おはし       在原の中将と申す人おはし       
ける。これはあぼうしんわう       ける。これは阿保親王         
の第五のわうじ、御母はいと       の第五の王子、御母は伊登       
うないしんわうと申なり。か       内親王と申すなり。か         
のなりひらと申は、天下のいろ      の業平と申すは、天下の色       
ごのみ、ならびなきほどのびじん     好み、並び無き程の美人        
なり。そのすがたあまりいつ       なり。その姿あまりいつ        
くしくして、さうがうなどもか      くしくして、相好なども輝       
がやきて、見わかぬほどのびじ      きて、見分かぬ程の美人        
むなり。身よりはらんじやの       なり。身よりは蘭奢の         
にほひをいで、とをりたまへば、     匂ひを出で、通り給へば、       
よそまでもくんじけり。く        よそまでも薫じけり。管        
はんげんのあふぎをきはめ、       弦の奥儀を極め、           
ことさら笛のじやうずなり。       殊更笛の上手なり。    

              (17丁裏)                 
                                   上17p

うたのみちにをひては、人        歌の道に於ては、人          
丸・赤人のあふぎをきはめた       丸・赤人の奥儀を極め給        
まへり。心だてまことにじん       へり。心だて誠に尋          
じやうにして、世のつねの人に      常にして、世の常の人に        
はすぐれたり。彼人のいはれは、     は勝れたり。彼人の謂れは、      
れうじにいひつくすべか         聊爾に言ひ尽くすべか         
らず。神にもすぐれ給へり。       らず。神にも勝れ給へり。       
さるほどに、いかなる女御・きさき、   さる程に、いかなる女御・后、    
雲の上人までも、又いや         雲の上人までも、又卑         
しきしづのめにいたるまで、       しき賤の女に至るまで、        
心をまどはさずといふ事な        心を惑さずといふ事な         
かりけり。そのいはれ伊勢物       かりけり。その謂れ伊勢物       
語にあり。くはしく見るべし。      語にあり。詳しく見るべし。      
彼人と申は、そのほん地申が       彼人と申すは、その本地申し難
                                       
              (18丁表)                  
                                      

たし。しかるに、我に心をかけ、     し。しかるに、我に心を懸け、     
ちかづきたらん女は、それをえん     近づきたらん女は、それを縁      
としてみちびくべしとちか        として導くべしと誓          
ひ給へり。ことゆるがしに申べから    ひ給へり。ことゆるがしに申すべから  
ず。さればしき<しき>のつま、しる   ず。されば色々の妻、記        
し申がたし。こゝにあきしのゝ      し申しがたし。こゝに秋篠の      
さとにつまあり。これまた、さる     里に妻有り。これまた、さる      
女なり。かれをおもひて夜る       女なり。彼を思ひて夜         
<夜る>それへかよひしを、もとの    々それへ通ひしを、旧の        
つま、まことにねたむけしき       妻、誠に妬む気色           
なくして、いだしたてゝやりけ      なくして、出だし立ててやりけ     
れば、なりひらはふしぎにお       れば、業平は不思議に思        
もひて、われいでゝのち、あらぬ     ひて、我出でて後、あらぬ       
ふるまひあればこそとおも         振舞ひあればこそと思

              (18丁裏)                   
                                   上18p


ひ、あるくれがたに河内へ行と      ひ、或る暮れ方に河内へ行くと     
いつはりて、みなみおもての       偽りて、南面の            
せんざいの中に木がくれて、       前栽の中に木隠れて、         
女のけしきを見給へば、さよ       女の気色を見給へば、小夜       
ふけ人しづまり、月ほの<ぼの>     更け人しづまり、月ほのぼの      
と出たるおりふし、すだれを       と出たる折節、簾を          
たかくまきあげて、手な         高く巻き上げて、手馴         
るゝことをかきならし、さう       るる琴を掻き鳴らし、想        
ふれんといふがくを、をしかへ      夫恋といふ楽を、押し返        
し<をしかへし>ひきけり。これはをつ  し押し返し弾きけり。これは夫     
とをこふるがくなり。あやしと      を恋ふる楽なり。怪しと        
おもひきゝ給へば、           思ひ聞き給へば、           
  風吹ばおきつ              風吹かば沖つ           
      しらなみ             白波
                                       
              (19丁表)                   


      たつた山              立田山            
    夜半にや                 夜半にや          
      君がひとり               君が一人         
        こゆらん               越ゆらん        
とゑいじて、むねのしたもえ       と詠じて、胸の下燃え         
のけぶりをやすめんと、てう       の煙を休めんと、銚子         
しにみづをいれて、むねのう       に水を入れて、胸の上         
へにをきければ、此水ほどなく      に置きければ、此水ほどなく      
ゆにわきかへりけり。立田山と      湯に沸きかへりけり。立田山と     
いふ山にはぬす人おほきな        言ふ山には盗人多きな         
り。しらなみとはぬすびとの       り。白波とは盗人の          
名なり。かやうにある山を、       名なり。かやうにある山を、      
中将ひとり行給ふ事おぼ         中将一人行き給ふ事覚         
つかなしとおもひてよめり。其      束なしと思ひて詠めり。其
                                   
              (19丁裏)                   
                                   上19p


時あまりのうれしさに、中将        時あまりの嬉しさに、中将      
せんざいよりはしり出て、「我       前栽より走り出て、「我       
はこれにあり」といひて、ふか       はこれにあり」と言ひて、深     
くおもひて、それよりかうち        く思ひて、それより河内       
へはゆかざりけり。さればなり       へは行かざりけり。されば業     
ひらは、三千七百卅三人の女        平は、三千七百三十三人の女     
にあひなれしが、其内より         にあひ馴れしが、其内より      
十二人の女房をすぐり、いせ        十二人の女房を選り、伊勢      
物がたりにしるされたり。その       物語に記されたり。その       
十二人の女のうちに、いせ・小町、     十二人の女の内に、伊勢・小町、   
女御・きさきもおほくおはす        女御・后も多く御座す        
れども、いまの心ざしをよろ        れども、今の心ざしを喜       
こびて、第一の筆にしるさ         びて、第一の筆に記さ        
れたり。くはしくはいせ物がたり      れたり。委しくは伊勢物語
                                      
                (20丁表)                 
                                      


を見給ふべし」。かやうにさま        を見給ふべし」。かやうにさま   
<ざま>にをしへをきて、げんじ六十     ざまに教へ置きて、源氏六十    
でうのうちを五六巻とりて、         帖の内を五六巻取りて、      
ふかくおさめたり。源氏の雲がく       深く納めたり。源氏の雲隠     
れ、さま<ざま>のせつおほし。これは一   れ、様々の説多し。これは一    
せつなり。大事のひじ也。ゆるが       説なり。大事の秘事也。忽     
しにせば、石山のくはんをんの御       しにせば、石山の観音の御     
ばちをかうむるべし。あなかしこ、      罰を蒙るべし。あなかしこ、    
ひすべし<ひすべし>とかゝれたり。其いは  秘すべし秘すべしと書かれたり。其謂
れども、ふかきくでんあり。ことお      れども、深き口伝あり。こと多   
ほきによりてしるさず。法文         きによりて記さず。法文      
ども、又歌どもおほし。くはしく       ども、又歌ども多し。委しく    
ならふべし。                習ふべし。
                                       
                (20丁裏)        
                                   上20p
                                                              

                                       



     〔挿絵  第八図〕                        〔挿絵  第八図〕

                                       




                                       
                                                               
                (21丁表)                 
                                       
                                      














                                 上21p



     


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