翻刻             (漢字かなまじり表記)        
さてもいづみしきぶは、雲の       さても和泉式部は、雲の        
うへ人の中にもすぐれたるこ       上人の中にも優れたる事、       
と、こと葉もをよびがたし。かや     言葉も及び難し。かや         
うのおりふし、道明法しにな       うの折節、道命法師に名        
をたちしかば、よろづの心も       を立ちしかば、万の心も        
かなはず。かたへの人<びと>にまじは  叶はず。傍の人々に交は        
るもはづかしくおもひしほ        るも恥づかしく思ひし程        
どに、かやうにてはいかゞある      に、かやうにては如何ある       
べしとちからなし。保昌に        べしと力なし。保昌に         
いとまをこひて、世をうきく       暇を乞ひて、世を浮草         
さにたゝへて、さそふ水あらば      にたゝへて、誘ふ水あらば       
と千ゝに心をくだきしお         と千々に心を砕きし折         
りふし、みやこに赤染衛門と       節、都に赤染衛門と          
いひし歌人ありしが、いづみ        言ひし歌人ありしが、和泉

               (1丁表)                

           
しきぶがこひをとぶらひて、一し     式部が恋を訪ひて、一首        
ゆのうたをぞをくりける。        の歌をぞ贈りける。          
  うつろはでしばし            移ろはでしばし          
      しのだの             信太の             
     もりを見よ              森を見よ           
   かへりもぞ                 返りもぞ          
        するくずの             する葛の         
          うら風              裏風          
これをきゝて、さては同世のほ      これを聞きて、さては同じ世の程    
どまでおもひけるやとおも        まで思ひけるやと思          
ひて、その返しに、           ひて、その返しに、          
  としふともかはらん物か         年経とも変らん物か        
     いづみなるしのだの         和泉なる信太の         
   もりの千重の               森の千重の

               (1丁裏)                   
                                    下1p

     くずの葉                葛の葉           
これは和泉の国にしのだの        これは和泉の国に信太の        
もりとてあり。おとこ女のみ       森とて有り。男女の道         
ちをまぼり給ふ神なり。その       を守り給ふ神なり。その        
しんたい、くすの木なり。かの      神体、樟の木なり。かの        
き、ときは木にて色かはらず       木、常磐木にて色変らず        
といへり。あかぞめの歌、しのだ     と言へり。赤染の歌、信太       
の森はをはりの国にあり。此       の森は尾張の国にあり。此       
もりの神は、いづみのしのだの      森の神は、和泉の信太の        
かみとふうふなり。そのもり       神と夫婦なり。その森         
には、くずかづらを神たいとし      には、葛鬘を神体とし         
けり。これはふかきくでんあ       けり。これは深き口伝あ        
り。こひぢのもりなり。ならふ      り。恋路の森なり。習ふ        
べし。かくて月日をゝくりし       べし。かくて月日を送りし
              
               (2丁表)           
                                       
                                       
に、やさかのみこをよびて、うら     に、やさかの巫女を呼びて、占     
かたをとひけるに、此みこ申け      形を問ひけるに、此巫女申しけ     
るは、「都にせちぶんの夜、人      るは、「都に節分の夜、人       
げんのふうふの事をさだめ        間の夫婦の事を定め          
給ふ神なり。いざゝせ給へ。せち     給ふ神なり。いざさせ給へ。節     
ぶんの夜、それへ御まいりあ       分の夜、それへ御参りあ        
れ。それにてまつりせん」とい      れ。それにて祭せん」と言       
ひければ、其夜つれて、かの       ひければ、其夜連れて、かの      
御やしろへぞまいりける。この      御社へぞ参りける。この        
事をほうしやうきゝ給ひ         事を保昌聞き給ひ           
て、いづもぢのやしろのかげ       て、出雲路の社の陰          
にかくれてまち給ふところ        に隠れて待ち給ふ所          
に、これをばすこしもしらずし      に、これをば少しも知らずし      
て、みこつれて、やしろへさよ       て、巫女連れて、社へ小夜
                                       
               (2丁裏)                    
                                    下2p
                                       
ふけがたにまいりける。せち       更け方に参りける。節         
ぶんの夜の事なれば、こも        分の夜の事なれば、籠         
りの人いかばかりおほかりけるに、    りの人いかばかり多かりけるに、    
神の御まへの人をのけて、み       神の御前の人を退けて、巫       
こ申けるは、和泉式部にげ        女申しけるは、和泉式部に霓      
いしやうういのまひをぞまは       裳羽衣の舞をぞ舞は          
せける。こゝをせんどゝいて立、     せける。こゝを先途と出て立ち、    
くれなゐのはかまふみくゝみ、      紅の袴踏み含み、           
むらさきのあこめのきぬの上       紫の袙の衣の上            
に、けんもんしやのすいかんを      に、顕紋紗の水干を          
うちかけて、玉のかんざし、たま     うち掛けて、玉の簪、玉        
かづら、くれなゐふかきかけお      鬘、紅深き掛け帯           
びに、あをぢのきんらんのむ       に、青地の金襴の胸          
ねのまぼりをかけ、あやのした      の守りを懸け、綾の襪
                                       
               (3丁表)                   

                                       
                                       
うづ・ぬひ物のくつ、くれなゐ      ・縫ひ物の沓、紅           
ふかきあふぎをかざし、うす物の     深き扇を翳し、薄物の         
袖をひる返し、ことしづかに       袖を翻し、こと静かに         
ぞまひすましける。おもしろし      ぞ舞ひ澄ましける。面白し       
とも、なか<なか>申にをよばず。ひと  とも、なかなか申すに及ばず。ひと   
へにてん人のやうがうのごとし。     へに天人の影向の如し。        
宮中すみわたり、しやだんも       宮中澄み渡り、社壇も         
     うごく                 動く            
        ばかり                 ばかり        
         なり。                 なり。
                                       
                                       
                                       
               (3丁裏)                   
                                       
                                    下3p
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
 〔挿絵 第一図〕            〔挿絵 第一図〕          
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
               (4丁表)               
                                      
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
  〔挿絵 第二図〕            〔挿絵 第二図〕         
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                (4丁裏)                 
                                       
                                       
                                    下4p

ほうしやう、めもあやに見給       保昌、目もあやに見給         
ひて、こゝろならず身もあらぬ      ひて、心ならず身もあらぬ       
ほどにぞまぼりたまひける。       程にぞ守り給ひける。         
みこ、いたに、ほうしやう・いづみ    巫女、板に、保昌・和泉        
しきぶといふもんじをかひて、      式部と言ふ文字を書いて、       
「せめのあしのころ、神の御かたへ    「責めの足の頃、神の御方へ      
むきてむねをひらきて、此板       向きて胸を開きて、此板        
にて、ちのあひだをさすりた       にて、乳の間を摩り給         
まへ」と申ければ、まひのあし      へ」と申しければ、舞の足        
ぶみたをやかに、やうりうの       踏みたをやかに、楊柳の        
春の風になびくがごとし。        春の風に靡くが如し。         
ほうしやうこれをきゝ給ひて、      保昌これを聞き給ひて、        
さやうにふるまひ給はんを        さやうに振舞ひ給はんを        
見ては、なにとしてかこらふべき。    見ては、何としてか堪ふべき。

               (5丁表)                   
                                       
                                       
くやしくもきらひたる物かな       悔しくも嫌ひたる物かな        
とおもひて、めをふさぎきゝたま     と思ひて、目を塞ぎ聞き給       
ひけるに、いづみしきぶそで       ひけるに、和泉式部袖         
をひるがへし、此いたをさしかざ     を翻し、此板をさし翳         
し、まことにゆうげんきはま       し、実に幽玄極ま           
りなきこゑをあげて、せめの       りなき声を揚げて、責めの       
あしぶみしとやかにふみま        足踏みしとやかに踏み廻        
はり、                 り、                 
  ちはやぶる神の             ちはやぶる神の          
      見るめも             見る目も            
       はづかしや            恥づかしや          
    身をおもふとて              身を思ふとて        
       みをや                身をや          
         すてまし              捨てまし  
                                
               (5丁裏)                  
                                    下5p
                                       
とうちゑいじ、「いまのざんげを     とうち詠じ、「今の懺悔を       
神もきこしめしはらし給へ」と      神も聞こし召し晴らし給へ」と     
の給へば、いつはりをばかみもあ     宣へば、偽りをば神も哀        
はれとやおぼしめしけん、なう      れとや思し召しけん、納        
じうし給ひて、しやだんもし       受し給ひて、社壇も頻         
きりにうごき給ひて、宮人        りに動き給ひて、宮人        
みな<みな>かんるいをながしければ、  皆々感涙を流しければ、        
ほうしやうかんにたえかねて、しや    保昌感に堪えかねて、社        
だんのかげよりはしりいで、かのま    壇の蔭より走り出で、かの舞      
ひひめをかきいだき、我しゆく      姫をかき抱き、我宿          
しよへかへり給ひて、二心なくお     所へ帰り給ひて、二心なくお      
はしましける。これもまつりの      はしましける。これも祭の      
ゆへとぞ申あひける。          故とぞ申し合ひける。          
                                        
               (6丁表)                   
                                       

                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
 〔挿絵 第三図〕            〔挿絵 第三図〕          
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
               (6丁裏)                 
                                     
                                    
                                    下6p

かくておほやけへまいりて宮              かくて公へ参りて宮                
づきければ、君もぎよかんあり      づきければ、君も御感あり       
て、てうおんあまたくだされけ      て、朝恩あまた下されけ        
り。かたへのみや人もうらやみあ     り。傍の宮人も羨みあ         
ひけり。かゝりける所に、とし十     ひけり。かゝりける所に、歳十     
七の春の比、身もたゞならず       七の春の比、身もたゞならず      
なりてなやみわづらひけるが、      なりて悩み煩ひけるが、        
すでにさんのひぼをとき、さも      既に産の紐を解き、さも        
あでやかなるひめをまふけ        艶やかなる姫を設け          
たり。玉をのべたるがごとし。いづ    たり。玉を延べたるが如し。和泉    
み式部は、「そも<そも>我おほやけ   式部は、「そもそも我公        
に宮づきたてまつり、雲の        に宮づき奉り、雲の          
うへ人にまじはる身が、いつぞ      上人に交はる身が、何時ぞ       
のほどにこもちになり、人<びと>    の程に子持ちになり、人々 
                                       
               (7丁表)                   
                                       
                                       
わらはれん事はづかし。いかに      笑はれん事恥づかし。いかに      
もり・めのとをつけてそだつ       守り・乳母を付けて育つ        
とも、さらにかくれあるまじ。いと    とも、更に隠れあるまじ。いと     
おしさはかぎりなけれども、人      ほしさは限りなけれども、人      
のしらぬさきにすてばや」と       の知らぬ先に捨てばや」と       
おもひ、玉のてばこをこしらへ、     思ひ、玉の手箱を拵へ、        
こがね・しろがねにてふくりん      黄金・銀にて覆輪           
をかけ、まきゑをさせ、ふたの      を懸け、蒔絵をさせ、蓋の       
うへに歌をまきゑにさせて、       上に歌を蒔絵にさせて、        
色<色>のきぬをしかせて、かの     色々の衣を敷かせて、彼の       
こを入ていだかせて、とうじ       子を入れて抱かせて、東寺       
のもんへぞいでにける。からいし     の門へぞ出でにける。唐石敷      
きのうへにすてをきてぞ         の上に捨て置きてぞ          
かへりける。              帰りける。
                                       
               (7丁裏)                   
                                    下7p
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
 〔挿絵 第四図〕            〔挿絵 第四図〕          
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
               (8丁表)             
                                      
                                       
                                       
おもひきりてはすてたれども、      思ひ切りては捨てたれども、      
夜ひるしのびのなみだをぞ        夜昼忍びの涙をぞ           
ながしける。心のうち、をしはから    流しける。心の中、推し量ら      
れてあはれなり。かやうのおり      れて哀れなり。かやうの折       
ふし、河内の国より、うばと       節、河内の国より、姥と        
おうぢあひつれてきたれり。       翁あひ連れて来たれり。        
これは清水へまいり、三七日こ      これは清水へ参り、三七日籠      
もり、我あとをとぶらふべき       り、我あとを弔ふべき         
こをいのり申けるが、そのしる      子を祈り申しけるが、その験      
しもなくて、なく<なく>下かう     もなくて、泣く泣く下向        
しけるに、とうじへまいりて       しけるに、東寺へ参りて        
おがむに、まはりかどをすぎて、     拝むに、回り角を過ぎて、       
すこしほどすみける<ママ>が、まこと    少しほどすみけるが、まこと      
にいつくしきはこを見いだし       にいつくしき箱を見出し   
                                      
               (8丁裏)                   
                                       
                                    下8p

たり。とりあげて見れば、なの      たり。取り上げて見れば、なの     
めならずくんじかほりけり。ふた     めならず熏じ香りけり。蓋       
をあけて見れば、いろ<いろ>の     を開けて見れば、色々の        
きぬをきせて、玉をのべたる       衣を着せて、玉を延べたる       
ごとくの姫をいれてすてた        如くの姫を入れて捨てた        
り。これはそもいかなる人        り。これはそも如何なる人       
の御こにてあるらんと、あやし      の御子にてあるらんと、怪し      
くおもひて、あたりの人にとひ      く思ひて、辺りの人に問ひ       
ければ、しらずとのみこそこ       ければ、知らずとのみこそ答      
たへけれ。此うばとおうぢおもひ     へけれ。此姥と翁思ひ         
けるは、これはひとへにきよみづ     けるは、これはひとへに清水      
の御はからひとうれしくおもひ      の御計らひと嬉しく思ひ        
て、いだき我かたへぞかへりける。    て、抱き我方へぞ帰りける。      
これを一大事とおもひ、我        これを一大事と思ひ、我   

               (9丁表)


身の年のよるをばうちわ         身の年の寄るをばうち忘        
すれて、はやくしてせいじんせ      れて、早くして成人せ         
よかしと、いつきかしづきてそ      よかしと、いつきかしづきて育     
だてければ、かのひめ、よのつね     てければ、彼の姫、世の常       
の人のこにもにず、ひとなるに      の人の子にも似ず、人なるに      
つけて、すがたかたち、中<中>こと   つけて、姿形、中々言         
ばもをよびがたし。心だてゆふ      葉も及び難し。心だて優        
にやさしくして、あさゆふうば・     にやさしくして、朝夕姥・        
おうぢの事をいたはり、そのひ      翁の事を労り、その暇         
まには、たれならはする事も       には、誰習はする事も         
なきに、歌をよみ、ひとり月       なきに、歌を詠み、一人月       
花に心をすましてすぎ          花に心を澄まして過ぎ         
ゆきけり。そのあひには、ちひ      行きけり。その間には、小       
さきつま木をひろひ、わかな・ね      さき爪木を拾ひ、若菜・根  
                                      
               (9丁裏)                  
                                    下9p

ぜりをつみて、うば・おうぢを      芹を摘みて、姥・翁を         
はぐくみける。うば・おうぢの      育みける。姥・翁の          
心の中、いかほどそふべきと       心の中、いかほど添ふべきと      
もしらずして、いとおしさ中       も知らずして、いとほしさ中      
<中>かぎりなかりけり。さるほど    々限りなかりけり。さる程       
に、はや十一になりにけり。い      に、早十一に成りにけり。和泉     
づみしきぶ心中におもふや        式部心中に思ふや           
う、「すでにはや、としたけ三十     う、「既に早、歳闌け三十       
にもをよぶべし。三十になれ       にも及ぶべし。三十になれ       
ば、おぼえずしてしらが二す       ば、覚えずして白髪二筋        
ぢおふるときく。一ごのほどお      生ふると聞く。一期のほど思      
もふに、たゞはつかに草葉の       ふに、たゞ僅かに草葉の        
つゆにことならず。いまゝで       露に異らず。今まで          
の年月を思ふに、一すいの        の年月を思ふに、一睡の
                                       
              (10丁表)                   
                                       

ゆめのごとし。ゆくすゑまたい      夢の如し。行く末又い         
くばくのよはひなるべき。昔       くばくの齢なるべき。昔        
より名をえたりし人<びと>、いづ    より名を得たりし人々、いづ      
れかひとりとゞまりし。とうばう     れか一人留まりし。東方         
さく・せいわうぼ・たうゑんめい、か   朔・西王母・陶淵明、か        
やうの人<びと>も、みな名ばかりの   やうの人々も、皆名ばかり残      
これり。我とても又かくのごと      れり。我とても又かくの如       
し。さればたれやのものが、あ      し。されば誰やの者が、跡       
とをとひてもえさすべき。わす      を訪ひても得さすべき。忘       
れがたみのいできたるかとお       れ形見の出で来たるかと思       
もへども、さやうにもなき事は、     へども、さやうにもなき事は、     
とうじのもんにすてたりし        東寺の門に捨てたりし         
みどりごが恨とおもへり。かれが     嬰児が恨みと思へり。彼が       
ゆくすゑをたづねばや」とおも      行く末を尋ねばや」と思   
                                      
              (10丁裏)                  
                                   下10p

ひたち、ほうしやうにいとまを      ひ立ち、保昌に暇を          
こひて、やまとのはせにこもり      乞ひて、大和の泊瀬に籠り       
たきよし申ければ、ねんごろ       たきよし申しければ、懇        
に出したてゝ、こしかきども、そ     に出し立てて、輿舁き共、そ      
れほどのよういしてぞをく        れほどの用意してぞ送         
られける。はせよりともの        られける。泊瀬より供の        
ものどもみな<みな>かへし、れん    者ども皆々返し、冷          
ぜい一人めしつれてこもりけ       泉一人召し連れて籠りけ        
り。いかやうの御つげかおはし      り。いかやうの御告げかおはし     
けん、ほかうのすがたに出立て      けん、歩行の姿に出立て        
はつせでらを出て、うはの空       泊瀬寺を出て、上の空         
にぞたづねゆきける。河内の       にぞ尋ね行きける。河内の       
国おく山のかたへまよひいり、      国奥山の方へ迷ひ入り、        
ならはぬたびの事なれば、身       慣はぬ旅の事なれば、身
                                       
              (11丁表)                   
                                       

もつかれ、あしよりちをながし、     も疲れ、足より血を流し、       
めのとのれんぜいに手をひかれ、     乳母の冷泉に手を引かれ、       
かなたこなたとまよひゆきけ       彼方此方と迷ひ行きけ         
るほどに、めいどちうゝのたびの     るほどに、冥途中有の旅の       
そら、いまよりおもひしられた      空、今より思ひ知られた        
りと、心ぼそき事かぎりな        りと、心細き事限りな         
し。山ふかきしつがいほりに       し。山深き賤が庵に          
たちより、一夜のやどをかり       立ち寄り、一夜の宿を借り       
ければ、うば立出てつく<づく>     ければ、姥立ち出てつくづく      
とまぼり、「あらいつくしの御      とまぼり、「あらいつくしの御     
すがたや。たゞよのつねの人とも     姿や。たゞ世の常の人とも       
見たてまつらず。いかやうの御      見奉らず。いかやうの御        
事にて、御いりあるらん」とたづ     事にて、御入り有るらん」と尋     
ねければ、「人をうらむる事あ      ねければ、「人を恨むる事あ 
               
              (11丁裏)                  
                                   下11p

りて、みやこのうちをたち        りて、都の内を立ち          
いでて、いかなる山のおくなり      出でて、いかなる山の奥なり      
とも、しばのいほりをもむ        とも、柴の庵をも結          
すび、さまをかへばやとおもひ      び、様を変へばやと思ひ        
て、うはの               て、上の               
     そらに                空に             
       まよふ                迷ふ           
         なり。               なり。         
    かりそめ               かりそめ            
        のみち               の道           
      ゆきぶりも、             行きぶりも、        
       ぜんせの                   前世の          
                                       
                    
               (12丁表)     

                                       
                                       

   
    ちぎりなりと                契りなりと        
        きく。一夜の             聞く。一夜の      
     やどをかし               宿を貸し          
         給へ」と                給へ」と      
      くるしげ                苦しげ          
          なる                  なる       
        こゑして                声して        
          いひ                  言ひ       
         ければ、                ければ、
                                       
               (12丁裏)               
                                       
                                       
                                      

                                   下12p
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
 〔挿絵 第五図〕            〔挿絵 第五図〕          
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       


              (13丁表)                 

                                      
                                       
うばもおうぢも心あるけ         姥も翁も心ある気            
しきにて、いぶせき柴の         色にて、いぶせき柴の         
あみ戸をひらき、いなむしろ、      編戸を開き、稲筵、          
ふくね<ママ>のこもをしきてぞよ      臥寝の薦を敷きてぞ呼         
びいれける。ならはぬ旅の事       び入れける。慣はぬ旅の事       
なれば、なじかはすこしもまど      なれば、なじかは少しもまど      
ろむべき。のきばもりくる        ろむべき。軒端漏り来る        
月にむかひ、              月に向かひ、             
  都にて見なれし             都にて見馴れし          
     月とおもへども           月と思へども          
   草のまくらに               草の枕に           
     やどりぬるかな             宿りぬるかな        
  山里はねられ              山里は寝られ           
      ざりけり             ざりけり

              (13丁裏)
                                   下13p
                                       
    夜もすがら                夜もすがら         
      まつふく                松吹く           
        風に                 風に          
     おどろかされて                驚かされて      
かやうにながめ、心をすました        かやうに詠め、心を澄まし給    
まひければ、おうぢ・うば是         ひければ、翁・姥是        
をきゝ、「あらおもしろの御事        を聞き、「あら面白の御事     
や。げにも雲ゐの月なれ           や。げにも雲井の月なれ      
ど、いやしきのきばにうつり、        ど、賤しき軒端にうつり、     
又さもゆうげんにおはすれ          又さも幽玄におはすれ       
ども、しづがふせやにとまり         ども、賤が伏屋に泊まり      
給ふ。おもしろし<おもしろし>。いかにひ  給ふ。面白し面白し。いかに姫   
めよ、いまのたび人の御歌を         よ、今の旅人の御歌を       
ばきかぬか。何もしらぬおうぢ・        ば聞かぬか。何も知らぬ翁・

                (14丁表)                 
                                      
                                       
うばにむかひては、うたよ、れん       姥に向かひては、歌よ、連      
がよといひしに、など御返しを        歌よと言ひしに、など御返しを   
ば申さぬぞ」といひければ、さも       ば申さぬぞ」と言ひければ、さも  
いたいけなるこゑしていひ          幼けなる声して言ひ        
けるは、「わらはもきゝて、おかしく     けるは、「妾も聞きて、可笑しく  
かたはらいたくおもひて、心のう       かたはら痛く思ひて、心の中    
ちにわらひてあるなり」とこた        に笑ひてあるなり」と答      
へければ、式部是をきゝ給          へければ、式部是を聞き給     
ひて、「あらふしぎの事や。都        ひて、「あら不思議の事や。都   
のうちにてさへ、みづからが         の中にてさへ、自らが       
うたをわらふ人はなかりしぞ         歌を笑ふ人はなかりしぞ      
かし。あのおさなきこゑして         かし。あの幼き声して       
わらふ事こそふしぎな            笑ふ事こそ不思議な        
れ」とおもひて、「そも<そも>何と     れ」と思ひて、「そもそも何と
                                       
                (14丁裏)                 
                                   下14p
                                       
して、かやうのこをばもちけ       して、かやうの子をば持ちけ      
るぞ。さらば返しをうけたま       るぞ。さらば返しを承         
はらん」との給ひけり。うば申け     らん」と宣ひけり。姥申しけ      
るは、「とく<とく>御返し申せ」と   るは、「疾く疾く、御返し申せ」と   
いひしかば、おさなきこゑして、     言ひしかば、幼き声して、       
「山風のとがはゆめ<ゆめ>なし」    「山風の咎はゆめゆめなし」      
と申て、                と申して、              
  山ざとにねらるれ            山里に寝らるれ          
       ばこそ             ばこそ             
     夜もすがら              夜もすがら          
    松ふく風に                松吹く風に         
      おどろきも               驚きも          
          すれ               すれ          
しきぶ是を聞給ひて、「げにも      式部是を聞き給ひて、「げにも
                                       
              (15丁表)                  
                                       

                                       
げにもことはりなり。あやま       げにも理なり。誤             
りてわらはれぬる事の          りて笑はれぬる事の          
はづかしさよ」とおもひて、かほ     恥づかしさよ」と思ひて、顔      
うち色<色>となし、「此おさない    うち色々となし、「此幼い       
もの見せ給へ」とのたまへば、「あ    者見せ給へ」と宣へば、「あ      
さましき物をきせて候<ママ>べき」     さましき物を着せて候べき」      
とはぢければ、たび<たび>「たゞ    と恥ぢければ、度々「たゞ       
くるしかるべからず。つれて       苦しかるべからず。連れて       
いでよ」とこひければ、やまが      出でよ」と乞ひければ、山賤      
つのならひなれば、まつを        の習ひなれば、松明を         
とぼして、おうぢつれていで       灯して、翁連れて出で         
にけり。                にけり。         
                                       
              (15丁裏)                   


                                   下15p
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
 〔挿絵 第六図〕            〔挿絵 第六図〕          
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
              (16丁表)                    
                                       
                                       
                                       
かゝるやまがつの子ともおぼえ        かゝる山賤の子とも覚え      
ずして、ゆうげんなり。「これは       ずして、幽玄なり。「これは    
いとけなきに、うば・おうぢはる       稚きに、姥・翁遙         
かにとしたけたり。そのことは        かに歳闌けたり。その子とは    
まことにみえず。いかに<いかに>」と    誠に見えず。いかにいかに」と   
たづねければ、二人のおや申         尋ねければ、二人の親申し     
けるは、「これはすてごにてあり       けるは、「これは捨て子にてあり  
しをひろひたる」よし申けり。        しを拾ひたる」よし申しけり。   
「いくつになるらん」とたづぬれ       「幾つになるらん」と尋ぬれ    
ば、「十一になる」とぞ申ける。「い     ば、「十一になる」とぞ申しける。「い
づくにてひろいけるぞ」。「とうじ      づくにて拾ひけるぞ」。 「東寺   
のもんのからいしきにすてられ        の門の唐石敷に捨てられ      
たりし」と申せば、あやしくお        たりし」と申せば、怪しく思    
もひ、「いつ比<ママ>」と申。「さていかやう  ひ、「いつ比」と申す。 「さていかやう
                                    
              (16丁裏)                  
                                   下16p

にしてすてたりけるぞ」と        にして捨てたりけるぞ」と       
たづねければ、「いつくしきまき     尋ねければ、「いつくしき蒔      
ゑのはこに入、色<色>のきぬ      絵の箱に入れ、色々の衣        
きせてすてたる」と申。されば      着せて捨てたる」と申す。されば    
こそあやしけれとおもひて、「そ     こそ怪しけれと思ひて、「そ      
のはこは」ととひ給へば、「いまだ    の箱は」と問ひ給へば、「未だ     
候」と申。「そのはこのうへに歌の    候」と申す。「その箱の上に歌の    
ありつるやらん」ととへば、あ      有りつるやらん」と問へば、有     
るよしをこたへけり。「さてはうた    るよしを答へけり。「さては疑     
がふ所なし。これはみづからがす     ふ所なし。これは自らが捨       
てたるこなり。しかるべくは我      てたる子なり。然るべくは我      
にかへせ」といへば、うばうちわら    に返せ」と言へば、姥うち笑      
ひて、「都はことひろし。いか      ひて、「都は事広し。いか       
やうの人もすてつらん。さらに      やうの人も捨てつらん。さらに

              (17丁表)


もちひず」とわらひけり。さら      用いず」と笑ひけり。さら       
ば其はこの歌見ぬさきに         ば其箱の歌見ぬ先に          
いふべし」とて、いづみしきぶ、ま    言ふべし」とて、和泉式部、ま     
づゑいじてきかせ給ひけ         づ詠じて聞かせ給ひけ         
る。そのうたに、            る。その歌に、            
  みなかみにもゝ夜の           みなかみに百夜の         
      霜はふらば            霜は降らば           
         ふれ             ふれ             
   七日<七日>の               七日七日の         
        月といは              月と言は         
          れじ               れじ          
とながめけり。其後はこをい       と詠めけり。其後箱を出        
だして見あはせければ、す        だして見合せければ、少        
こしもたがはず。「これはいかに」       しも違はず。「これはいかに」 
                                        
              (17丁裏)
                                   下17p
                                       
といひけり。「そのこゝろは、たと    と言ひけり。「その心は、たと     
ひかみのしろくなるとも、こも      ひ髪の白くなるとも、子持       
ちと人にわらはれじとよめ        ちと人に笑はれじと詠め        
り。七日<七日>とは十四日なり。    り。七日七日とは十四日なり。     
月をばこもちといひ、十五        月をば子持ちと言ひ、十五       
日の夜をば、もち月といふ        日の夜をば、望月と言ふ        
なり」とくはしくをしへけり。      なり」と委しく教へけり。       
「此こをたづねてこそ、うはの      「此子を尋ねてこそ、上の       
空にまよへ。しかるべくは、       空に迷へ。然るべくは、        
われつれて都へのぼらん」        我連れて都へ上らん」         
との給へば、うば・おうぢ、「おも    と宣へば、姥・翁、「思        
ひもよらず」とかたくおしみ       ひもよらず」と固く惜しみ       
けり。「そのぎならば、ひめにと     けり。「その儀ならば、姫に問      
へ」とぞいひける。ひめ申けるは、    へ」とぞ言ひける。姫申しけるは、   
                                     
              (18丁表)

                                       
「おもひもよらず。そも<そも>なに   「思ひもよらず。そもそも何      
のとがにより、なにがにくゝてすて    の咎により、何が憎くて捨て      
給ひけるぞ。またゆへもしらぬ      給ひけるぞ。また故も知らぬ      
うば・おうぢだに、いたはしき事     姥・翁だに、いたはしき事       
におもひて、ひろひて我を一大      に思ひて、拾ひて我を一大       
事とそだつるに、さて<さて>何     事と育つるに、さてさて何       
ごとのとがありて、なさけなく      事の咎ありて、情けなく        
すてたまひけるぞや。此うば・      捨て給ひけるぞや。此姥・        
おうぢのひろはずは、いかなると     翁の拾はずは、いかなる鳥       
り・けだ物のゑじきとも         ・獣の餌食とも            
なるべし。いまとなりて、と       なるべし。今となりて、年       
し月のおんをわすれて、そ        月の恩を忘れて、其          
なたへまいる事ゆめ<ゆめ>かなふ    方へ参る事ゆめゆめ叶ふ        
まじ」とて、なみだをながして      まじ」とて、涙を流して

              (18丁裏)                   

                                  下18p 
                                       
うらみければ、しきぶ、かつうは     恨みければ、式部、且うは       
めんぼくなく、またははづかしく     面目なく、または恥づかしく      
もおもひ、そのゝちはことばも      も思ひ、その後は言葉も        
なかりけり。さりながら、「これを    なかりけり。さりながら、「これを   
こゝろにかけたるぞかし。ひとへ     心に懸けたるぞかし。ひとへ      
にくはんをんの御りしやう        に観音の御利生            
にぞたづねあひたるらめ」とて、     にぞ尋ね逢ひたるらめ」とて、     
はせの御かたをふしおがみ、この     泊瀬の御方を伏し拝み、此の      
よしを都へ申のぼせ給ひけれ       よしを都へ申し上せ給ひけれ      
ば、ともにつれてのぼるべき       ば、共に連れて上るべき        
よしおほせくだされて、うば・お     よし仰せ下されて、姥・翁       
うぢがいしやうまでぞくださ       が衣裳までぞ下さ           
れける。みな<みな>ひきぐしの     れける。皆々引き具し上        
ぼりけり。此事おほやけに         りけり。此事公に
                                       
              (19丁表)                   
                                       

きこしめし、まことにあはれ       聞こし召し、誠に哀れ        
とおぼしめして、たんごの国       と思し召して、丹後の国        
よさはのこほりを下されけり。      与謝の郡を下されけり。        
うば・おうぢまづそれへつかは      姥・翁まづそれへ遣          
し、ふつきばんぷくしてぞ        し、富貴万福してぞ          
すぎにける。其後御門すみ        過ぎにける。其後御門住        
よしへみゆきならせ給へり。し      吉へ行幸ならせ給へり。式       
きぶも御ともにまいりける。       部も御供に参りける。         
かの御やしろ御めぐりありけ       かの御社御巡りありけ         
るに、おりふし千鳥・かもめ・      るに、折節千鳥・鴎・         
よろづの水鳥、うみにうかび       万の水鳥、海に浮かび         
てなみにゆられゐたるを、さも      て波に揺られ居たるを、さも      
おもしろくおぼしめして、あ       面白く思し召して、あ         
の水鳥いてまいらせよ」との        の水鳥射て参らせよ」との
                        
              (19丁裏)
                                   下19p
                                       
せんじをくだされける。北面の      宣旨を下されける。北面の       
人<びと>ゆみやをもち、なぎさに    人々弓矢を持ち、渚に         
おりたちねらひけるけしき、       下り立ち狙ひける気色、        
まことにおもしろくゑいらん       誠に面白く叡覧          
あり。「此けしきをうたによみ      あり。「此気色を歌に詠み       
てまいらせよ」と、いづみ式部に     て参らせよ」と、和泉式部に      
せんじあり。しきぶ、「身づからが    宣旨有り。式部、「自らが       
歌めづらしからず。これにひめ      歌珍しからず。是に姫         
を一人めしぐしてまいれり。か      を一人召し具して参れり。彼      
れによませらるべき」よしそ       に詠ませらるべき」よし奏       
うもん申ければ、「こなたへめ      聞申しければ、「此方へ召       
しいだせ」とのせんじにて、め      し出だせ」との宣旨にて、召      
しいだされ、此よしをおほせ       し出だされ、此よしを仰せ       
くだされければ、かの姫もの       下されければ、かの姫物

              (20丁表)
                                       
                                       
ほそきこゑにて、「ちはやぶる」     細き声にて、「千早振る」       
と申ければ、はゝ「あれは」とし     と申しければ、母「あれは」と叱    
かりければ、いひさしてけり。「何    りければ、言ひさしてけり。「何    
とてさやうにはいさむるぞ」と      とてさやうには諫るぞ」と       
せんじありければ、式部、「神      宣旨有りければ、式部、「神      
の御事にこそちはやぶると        の御事にこそ千早振ると        
は申はんべれ。是はてうる        は申し侍れ。是は鳥類、        
ひ、つばさの事なり。さていさ      翼の事なり。さて諫          
めて侍るなり」と申。「さてわろ     めて侍るなり」と申す。「さてわろ   
くとも、いとけなきものなれ       くとも、稚き者なれ          
ばくるしからじ。よませてき       ば苦しからじ。詠ませて聞       
け」とのせんじなり。「さらばよ     け」との宣旨なり。「さらば詠     
みてたてまつれ」と母ゆる        みて奉れ」と母許           
しければ、                しければ、         

              (20丁裏)
                                   下20p
                                       

  ちはやぶる神の             千早振る神の           
     ゐかきに              斎垣に             
      あらねども             あらねども          
   なみのうへにも               波の上にも         
       鳥い立けり              鳥居立ちけり       
御かどをはじめたてまつり、       御門をはじめ奉り、          
げつけい・うんかく、一度にどつ     月卿・雲客、一度にどつ        
とかんじけり。やがてゆるし       と感じけり。やがて聴し        
色の御ぞ下され、名をば小し       色の御衣下され、名をば小式      
きぶの内侍とめされ、ゑいぐ       部の内侍と召され、栄花        
はにほこりけり。             に誇りけり。
                                       
              (21丁表)                   
                                    
                                       
                                       
                                       

                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
 〔挿絵 第七図〕            〔挿絵 第七図〕          
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
              (21丁裏)      
                                      
                                       
                                   下21p
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
 〔挿絵 第八図〕            〔挿絵 第八図〕          
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
                                       
              (22丁表)             
                                      
                                       

十三の年、内侍のせんじをか       十三の年、内侍の宣旨を蒙       
うぶりけり。其後いづみ式部、      りけり。其後和泉式部、        
くぜのとへまいりたきよし申       久世の戸へ参りたきよし申し      
ければ、日数の御いとまを        ければ、日数の御暇を         
たまはり、かのくぜのとへまいり     賜はり、かの久世の戸へ参り      
て、みだうのやうをおがみ、この     て、御堂の様を拝み、この       
だうのひかりにあたりたらんもの、    堂の光にあたりたらんもの、      
後の世のやみにまよふべからず      後の世の闇に迷ふべからず       
ときゝて、やがて我がぎやくしゆ     と聞きて、やがて我が逆修       
のせきたうをたて、地どもを       の石塔を建て、地どもを        
よせければ、いまゝでもその       寄せければ、今までもその       
つとめをこたらず。しかるに、み     勤め怠らず。しかるに、御       
かどの御てうあひの小松には       門の御寵愛の小松俄          
かにかれけるを、なのめならず      に枯れけるを、なのめならず       

              (22丁裏)
                                   下22p
                                       
御をしみあつて、「神も草        御惜しみあつて、「神も草       
木も歌のみちになびくなり。       木も歌の道に靡くなり。        
いづみしきぶいそぎてめしの       和泉式部急ぎて召し上         
ぼせて、松のいのりに歌をよ       せて、松の祈りに歌を詠        
ませよ」とのせんじなりけれ       ませよ」との宣旨なりけれ       
ば、こしきぶのないし、「丹後ま     ば、小式部の内侍、「丹後ま      
でははるかのみちなり。まづ       では遙かの道なり。まづ       
みづからよみてまいらすべき」      自ら詠みて参らすべき」        
よしそうもんす。「いそぎ<いそぎ>   よし奏聞す。「急ぎ急ぎ        
よみてみよ」とのせんじなり       詠みてみよ」との宣旨なり       
ければ、小式部の内侍、ゐんざ      ければ、小式部の内侍、院参      
むして、此松をめぐりけり。       して、此松を巡りけり。        
  ことはりやかれては           理や枯れては           
     いかに姫小松            いかに姫小松          

              (23丁表)
                                       
                                       
    千世をば君に              千世をば君に         
      ゆづると               譲ると           
       おもへば               思へば          
かやうにゑいじければ、此まつ      かやうに詠じければ、此松       
しきりにうごきて、やがて時の      頻りに動きて、やがて時の       
まにさかへてありければ、ぎ       間に栄えてありければ、御       
よかんなのめならず。しき<しき>    感なのめならず。色々         
の御けしきたまはりけり。ある      の御気色賜はりけり。或る       
人ざんし申ていはく、「此うたは、    人讒し申して曰く、「此歌は、     
たんごよりきのふ人のゝぼりた      丹後より昨日人の上りた        
りときこゆ。いづみしきぶがよみ     りと聞こゆ。和泉式部が詠み      
てのぼせたり」と申。そのよし御     て上せたり」と申す。そのよし御    
たづねありければ、「こんにち夜     尋ねありければ、「今日夜       
に入て、たんご母のかたより        に入りて、丹後母の方より
                                       
              (23丁裏)
                                   下23p
                                       
いろ<いろ>の物のぼせられけれ     色々の物上せられけれ
ども、いそぎのめしにしたがひ      ども、急ぎの召しに随ひ        
て、ふみどもを見ず」と申て、      て、文どもを見ず」と申して、     
  大江山いくのゝ             大江山生野の           
       みちの             道の              
    とをければ               遠ければ           
       まだ文も              まだ文も          
   みずあまの                  見ず天の         
       はしだて                橋立          
とゑいじければ、ぎよかんあ       と詠じければ、御感有         
りて、さては人をつかはさせ       りて、さては人を遣させ        
給ひて見せられければ、いづみ      給ひて見せられければ、和泉      
しきぶはあまのはしだてに        式部は天の橋立に           
歌をよみてこめけり。           歌を詠みて籠めけり。          
                                       
              (24丁表)                   
                                       
                                       
  よさの海や               与謝の海や            
     月すみ               月澄み             
      わたる               渡る             
   うら風に雲も                浦風に雲も         
       かはらぬ               変らぬ          
      あまの                  天の          
        はしだて                橋立         
かやうにゑいじて、もんじゆに      かやうに詠じて、文殊に        
たむけたてまつり、やがて都へ      手向け奉り、やがて都へ        
のぼりて、とみさかへて、ゑい      上りて、富み栄えて、栄        
ぐはにほこる事かぎりなし。さ      花に誇る事限りなし。さ        
ればいかにも歌のみちを         ればいかにも歌の道を         
たしなむべきなりと申ける。め      嗜むべきなりと申しける。め      
でかりし事どもなり。          でたかりし事どもなり。
                                       
              (24丁裏)               
                                   下24p



     


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